吉本隆明 「夏目漱石を読む」

ほぼ日で、糸井さんと吉本さんの対談が週に1回くらいの割合で更新されています。
「ほんとうの考え」というタイトルです。一番最近の更新が5月1日にあり、その日のお題は「試練」でした。
糸井さんのまえがきに次のようにあります。

人間には、どうしても、
その人自身では責任の持てないことがある。‥‥すっと、「そうだろうな」と思うかもしれません。
でも、ほんとうに、そういうことがあるわけです。しかも、誰にでも、共通にあるわけです。

それが、「どこの家に、どういう境遇に生まれたか」ということだというんですよね。
どうやったって、その人のせいじゃないところから、誰もが出発しなきゃならないんですね。

そして、お二人の次のような会話があります。

吉本

お母さんが、なお体内にあるのとほとんど同じように育ててくれたか、そうじゃないか、ということは、人間には
意識としてつきまといます。考えなきゃつきまとわないですけど、考えたら、一生つきまといます。

糸井
考えたら、つきまとうんですね。つまり、そこが自分の責任だ、と。

吉本
そうです。
ここに生まれようと思ったわけじゃない、自分の責任じゃない、っていくら言っても、
そうじゃないよ、ということです。これは、非常に重大なことなんです。

生まれたとたん、試練を与えられたというのは、わりあい、みんな同じです。
母親が冷たかったか、意地悪か、生まれなかったほうがよかったと思ってたかどうか、そういうところは、
人によってちがいます。

そこの問題を意識的にも、無意識的にも考えて、生活し、成長し、仕事をしていったかどうか、
そのことは、その人自身の問題です。

この会話を読んだ後、吉本さんの「夏目漱石を読む」に図書館で出逢いました。
漱石において幼少期の体験がどのように作品にあらわれているのか丁寧に書いてあります。
やっと読み終わったのですが、漱石の作品をすべて読み終えたような充実感があります。
そして、漱石は、小説を書くことにより、糸井さんと吉本さんによって語られている試練と向合っていったように感じました。
「坊ちゃん」という小説については、つぎのような解釈を読んで違ったイメージとして記憶することになりました。

漱石の「坊ちゃん」は日本の近代小説のなかで悪童物語の典型になっていて、いまでも読むとたいへんおもしろおかしい小説で笑えるのです。明治時代に書かれた小説がいまでも悪童小説として通用してしまうという永続性は、その場かぎりの言葉のあやではだめなのです。その永続性は、たぶんそのとき漱石の奥のほうに隠されていた生涯の悲劇性です。大会社の重役として勤めていた人が突然やめて中小企業の平社員になったのとおなじくらいたいへんなことを、なぜやったのか。漱石がもっていた精神状態はそんなことには代えられなかったというか、そんなことをグズグズいっていられない状態で、たいへんな生涯の危機のひとつだったと理解できるのです。