梅田望夫さんの「シリコンバレーからの手紙」(新潮社 フォーサイト)

「目からうろこが何枚も落ちたオープンソースの人間的本質」
http://d.hatena.ne.jp/umedamochio/20080314
 梅田さんのブログに,最新号の内容について書かれていたので、早速本文を読んでみました。
 みんなオープンソースの動機を追及したがるようです。
でも、オープンソースプロジェクトに参加するハッカーたちの動機を考えることが、唯一オープンソースの本質を考えることになるのだろうかという思いが私の中にはあります。
 松本さんが断じようようと、梅田さんの目からうろこが落ちようと、今回、書かれていることは、ある一面をとらえているにすぎないように感じます。人間も、物事も多面体であるような気がするのです。だからといって、異議を唱えるつもりもないし、一面の真実を感じもします。
ただ、動機を追求するよりもオープンソースの成果を武器に、日本のシステム業界に新たな風を吹かせることができないものかとの思いが強くあります。 なぜなら、もし新たな風を吹かせることができたら電脳奴隷制から一人一人の技術者が封建領主となることも夢ではないような世界がおとずれるのではと思うからです。

オープンソースがなぜビジネスになるのか (MYCOM新書)

オープンソースがなぜビジネスになるのか (MYCOM新書)

オープンソースがなぜビジネスになるのか」の第一章 オープンソースの原点 オープンソースの成果の中で、オープンソースの成果としてリナックスに採用されているディスクトップ環境グノーム、オープンオフィス・ドット・オルグ、ブラウザのモジラ・ファイアフォックス、ウェブサーバのアパッチ等を紹介し、以下のような結びで締めくくられています。

ほかにもいろいろなソフトウェアがあり、それぞれ別々のコミュニティが自分たちで設定した目標とスケジュールで開発を続けています。同じ機能に対して複数のプロジェクトがあって、どれを選ぶか迷ってしまう、という贅沢な状況になってきました。そして、これらはすべて、オープンソースなのです。そして、そのほとんどのライセンスはGNU GPLになっています。つまりフリーソフトウェアです。
 よくフリーソフトウェアオープンソースの違いを聞かれることがあります。とりあえず、「フリーソフトウェアは、ソフトウェア開発者個人としての問題意識から出発している。一方、オープンソースは、産業としての問題意識から出発している。」と答えることにしています。つまり、フリーソフトウェアは、よりよいソフトウェアを開発するために、自由にソースを改良できなくてはならないという考え方に立ち、オープンソースでは、ソフトウェア産業を発展させるという見地から、ほぼ同じことを主張しているのです。ただし、フリーソフトウェアを論じる場合には、具体的なソースコードや手法を対象とし、オープンソースの場合は、組織論までを含める傾向があるようです。(中略)ともかくも、20世紀とは違った「ビジネス」の形がどんどん出てくるでしょう。そして、オープンソースの時代となるのでしょうか。それはみんさんが決めることになります。

 改めて言います。オープンソースの時代としたいと思います。
オープンソースの成果を武器に、日本のシステム業界に新たな風を吹かせられたらいいなと思っています。

 シリコンバレーからの手紙が次回最終回ということを知り、私の小さなシリコンバレー体験、そして、プログラマ、そしてシステムコンサルタントとしての人生の思い出を一緒の引き出しにしまっておきたくなりました。、題して「シリコンバレーへの手紙」なぜ日本のシステム業界に新たな風を吹かせられたらという思いを持つにいたったのか書いてみたくなりました。おまけです。
 私のシリコンバレー体験は、1976年大学3年の春、そう、ちょうど3月の今頃、まだシリコンバレーと呼ばれていなかった頃、ロスアルトス アルボレダドライブにあった(今もお元気かな)Rossow夫妻のところにホームステイしたことです。フランス文学科の学生であったのになぜかアメリカに行きたくて行ってしまったのでした。
 その後、思いがけなく汎用機のプログラマとなり、外資系の証券会社のシステム部門で、英文会計を勉強しながら、パッケージソフトの走りである(英語版しかなかった)会計システムの導入を担当しました。その後、そのとき会計システムの導入のコンサルティングを担当していたビックエイトのコンサルティング部門に転職しました。そして、合併を経て監査法人コンサルティング部門勤務となり、1998年に退職するまで、金融機関のアセットマネジメントシステム(情報系)の設計とプロジェクトリーダを経験しました。目標としていたシニアマネジャーになったら、ふと現実に目が行き、超個人的な理由でもったいなくも退職してしまったのです。
 紙カードでプログラムを登録する時代を経験し、フルスクリーンエディタでソースを登録修正するようになり、会計、証券分析をOJTプラス独学し、プログラマからコンサルタントへ、まさに、サバイバルしていきました。1994年から1995年には、1年間休職して、UCバークレーのエクステンションに「遊学」もしました。当時、日本ではパソコン通信の時代でニフティがインターネットにもつながるようなIDを出し始めた頃でした。UCBの学生の運営する組織(OCF)でメールアドレスを無料で入手し、ワークステーションも無料で利用できて、PINEというソフトで日本の仕事仲間にメールを送信した記憶があります。漢字変換ソフトなんてもちろんないから、変な英語とローマ字を駆使してがんばりました。日本からも返信が届き、新しいメールをチェックするために、ワークステーションの置いてあるOCF(オープン・コンピュータ・ファシリティー?)に通いました。インターネットもインフォメーションスーパーハイウェイとかサイバースペースなどと呼ばれ話題になっていました。エクステンションで受けたプレゼンテーションのクラス、(テーマを決めて原稿を作成し、皆の前でプレゼンし、それをビデオに収め先生が批評するというやり方なのですが)、テーマとしてインターネットのマーケッティングを選びました。そのときのビデオは記念にとってあります。
 こんな経験をもっていたのでシリコンバレーという語感から連想される自分の思いも手伝って、CNETの梅田さんのブログに興味をもちました。「はてな」に移行されたのをきっかけに「はてな」の存在も知り、その後、「ウェブ進化論」も読みという具合に注目し続けてきました。梅田さんの著作に注目し続けたもう一つのキーワードは、オープンソースでした。
 五十歳をすぎて、会社という組織にしばられずに仕事をしていきたいという夫と二人で会社を立ち上げました。
ほとんど無からの船出という無謀な旅立ちでした。自由の重みと開放感を感じる旅路です。金融工学コンサルタントとして個人的にリナックスを利用しようとして苦労したときに自分が欲しかったサービスを提供するというコンセプトで、夫がこつこつ作業を進めています。パソコンを自作したり、楽しみながら苦しみながらというところでしょうか。私は、収益を補うため、オブジェクト指向、DB等を勉強しなおして、Javaアソシエイツの資格をとったりして、「経済的動機」で現場に派遣社員として戻りました。そこで感じたことは、日本では、最近ソフトウェアを自分の仕事にしてみようという若い人が減ってきたと聞くけれど、当然かなという思いです。システムを評価する単位は、相変わらず何人月、何ステップというやり方が残り、成果物(設計、プログラム)の内容の良し悪しで対価が支払われるのではなく、一人月いくらのSE・PGを何人投入したからいくらという計算でしかないのです。これ以上、その体質を云々すると美しくないのでやめますが、現役時代、かなり恵まれた環境で仕事をしていたせいか、この辺のところに大きな疑問を感じないまま過ごしてしまっていたのかもしれません。どんな業界においても、それぞれに問題はあるのでしょう。他の業界のことはわからないけれど、オープンソースの成果物を武器に20世紀とは違った「ビジネス」の形をどんどん創造し、若い世代にとって魅力ある業界になってほしいと思います。魅力ある業界にしていかなくてはと思います。電脳奴隷制の解放です。