玄侑宗久 中陰の花(文庫版)

 2005年11月7日の日記の「読書」カテゴリで、玄侑さんと養老さんということで「脳と魂」を紹介しました。
「脳と魂」の最後に養老さんが、玄侑さんについて書かれている部分を引用して玄侑さんのお坊さんとしての
「品格」を多くの人に知ってもらいたいと思ったからです。
 玄侑宗久さんの著作との出会いは、その年の1月ごろでした。横浜の「みなとみらい」にある(正しくはあった)みらい書房という本屋さんに立ち寄ったときでした。なんとなく文庫本の棚にあった「中陰の花」を手にとりました。目次を開くと「解説 河合隼雄」という文字に目が行きました。河合さんのファンなので、つい解説から読み始めました。

「中陰の花」文庫の解説より

 本書の著者玄侑宗久は、「現代に生きる仏僧」として努力している人である。しかし、これはなかなか大変なことだ。
「人が死なはったら、地獄行ったり極楽行ったり、ほんまにあるんやろか?」このような素朴な質問に対して、「仏僧」としてどう答えるのか。「知らん」といってすましておくわけにはいかない。(中略)
確かに、昔の宗教は現在の自然科学の領分にまで口出ししていたので、その誤りを指摘されたわけだが、自然科学が逆に宗教の世界まですべて支配するのは不可能である。
 よく言う例だが、愛人が目の前で交通事故で死亡したため抑うつ症になった人が、「あの人はなぜ死んだのか?」と問いかけてくるとき、「出血多量」という科学的説明は、この人の抑うつ症に対して何の役にもたたない。人はなぜ死ぬのかという一般論ではなく、「私の恋人が」という「関係」が生じたなかでの問いには、自然科学は答えられないのである。(中略)
近代科学のみに頼っていると、人間は世界から「切れて」孤独になるし、生きてゆくことに潤いがなくなる。それを補ってくれるのが、「関係」を第一と考える意識であり、それは「宗教」につながってくる。(中略)
現代に生きる仏教を、文学作品を通じて語るという試みは素晴らしいし、この作品はそれに成功している。この作者の今後の作品が楽しみである。

 もちろん、この手にした文庫本を持ってレジに向かいました。この解説に答えるように書かれたとも思える、著者自信による文庫本版のためのあとがきも、とても読みがいのあるものでした。

 著者自身がモデルと思われるような、禅寺の住職夫婦の日常の出来事を中心に、彼らを取り巻く、今はやりのスピリチュアルブームのはしりのような霊の見えるお婆さんや新興宗教の話が登場する。そこには、人の心の不思議さや、生きてゆくことの哀しみがどのように、癒されていくのかが描かれている。
 人は、死ぬと「仏」になると、仏教を信じていない人の口から語られることがある。私が、親戚のおばさんに怒りを感じ「縁」を切った状態でいることに対し、宗教なんて信じていない親戚から、相手は年寄りなのだし、死ねば皆「仏」になるのだからとたしなめられたとき、何か変だなあと感じた。でも、人は無意識に「死ぬ」ということにそれぞれの意味を創りつづけているのだろうか。 こうしたテーマとは別に、主人公夫婦の会話の場面の雰囲気がとても穏やかで品の良さを漂わせていることに後味の良さを感じた。
 この後、エッセイ(新書)を中心に玄侑さんの著作を次から次へと読みながら、以前日記を書いた秋へと時が流れていきました。
 ここ最近、この閉店してしまった本屋さんの近くで仕事をしていましたが、もうすぐお別れです。
そんなこんなで、「中陰の花」について思い出を書いておきたくなりました。

中陰の花 (文春文庫)

中陰の花 (文春文庫)

玄侑宗久公式サイト/Genyu Sokyu Official Site