茂木健一郎 美と「私」 制約を恵みに変えるために(横浜美術館レクチャー・ホール)

kogotousabei2007-08-26

森村泰昌―美の教室、静聴せよ」展によせて行われた茂木さんの講演を聴きに行く。
講演の前に、「森村泰昌―美の教室、静聴せよ」展を「静聴」した。
受付で音声ガイドを渡され、その音声ガイドから流れる森村氏の説明を「静聴」しながら順番に展示室をまわる。
初めて体験する不思議な展示であった。

茂木さんの講演会を聞くための列に並ぶ。列の尻尾は、グランドギャラリーと呼ばれる
二層吹き抜けの大きな空間まで達していた。そこで開催されていた楽器の演奏を聴きながら、10分程ぼんやりする。

真ん中の殆ど一番うしろの席に座った。茂木さんの顔が真正面からよく見える。
いきなりという感じで、力強く話が始まった。

あらゆる表現ジャンルで、現代美術ほど「何をしてもよい」自由な活動分野はない。
しかし、だからこそ、苦しい。
その苦しさを恵みに変える方法は、「自らの制約を受け入れる」ということにある。

「でも制約を受け入れるといことは、あきらめることではないんだよ。」

そこのところは、なんとなく解る。でも、もっと深く納得したいと考えはじめた。
そして美とは何なんだと言う、唐突な問いかけをも含めて、心に仕舞って外に出た。
ブログで紹介しようと思って、写真を何枚かとる。そして、ミュージアムショップの
横にあるカフェでクリームあんみつを食べながら、また考える。

夜、寝る前に河合隼雄さんの「こころの処方箋」を読み返してみる。

こころの処方箋 (新潮文庫)

こころの処方箋 (新潮文庫)

「4.絵に描いた餅は餅より高価なことがある」という節になんとなく手がかりをみつけたような・・・。

 われわれは時に衝動的に何かが欲しくてたまらなくなるときがある。あるいは、何か手に入れたくて、
そのためには、他人から見れば馬鹿げたように見える努力を払い続けるときもある。そんなとき、よく
考えてみると、自分が手に入れようとしている「餅」そのものより、それに重ね合わせている、自分の
心の中にある「絵に描いた餅」の方が高価な意味をもっていることに気づくことがあるだろう。そうなる
と、われわれは、絵に描いた餅を、それはそれとして鑑賞したり、値打ちを見定めたり、それ相応に評価
すると共に、餅は、餅として評価し、両者の混同による失敗も少なくなるであろう。
 食べることにのみあくせくせず、絵に描いた餅の鑑賞力を磨くことを心がけることが、これからますます
大切になることだろう。

そして、

 絵に描いた餅とは、ヴィジョンである、ともいえる。現物の個々の餅つくりに心を奪われるあまり、餅に
ついてのヴィジョンをもつことの大切さを忘れるのである。

また、

 日本人はどうも絵に描いた餅を過小評価する傾向が強すぎるように思われる。

茂木さんの「あきらめることではない」とは、「絵に描いた餅」と餅との間で戦いながら、
現実の餅を少しでも変えてゆくことかな。それは、味を少し変えるなんて易しいことではなく、
絵に描いた餅の正しさ、美しさを信じたら、そこに殉じてしまうぐらいの激しさにつながるのかな。

考え疲れたけれど、みなとみらいの空はどこまでも明るい。